カテゴリ:餌やり規制問題について( 38 )

2014年 01月 25日
今年も餌付け規制問題を考える
a0044783_20222020.jpgこの時期になるとあまり考えたくない餌付け規制問題をどうしても考える機会が多いので、以前と重複する点もあるが今年も少しだけ思うところを書いてみる。

 一例として、「餌付けによって日本のカモやハクチョウの数が増えると、繁殖地のシベリアの生態系を変えてしまう」というような言い方がある。つまり例えば数が増えれば彼らが繁殖地で餌としている特定の動植物がより消費され、またそれを餌としていた他の動物も減るというように、日本での餌付けの影響が思わぬ遠いところにまで及ぶ―といったことだ。

こうした言い方は確かに一見なるほどと思わせるのだが、そこでふむふむと感心する前に、何か重大なことを忘れていることに気付かなければいけない。特に日本ではこの戦後70年弱の間に、それこそとんでもない面積の湿地や干潟(―つまり彼らの餌場)が開発によって恐るべき勢いで失われているのであって、この時点で俗にいうところの「自然本来の生態系のバランス」は既に大きく崩れている。しかもこれは越冬地での個体数の維持、ひいては繁殖地への帰還率にとってはマイナスの方向へ崩れているはずであり、それを忘れて餌付けによる個体数の増加だけに注目していては、物事の本質を大きく見誤ってしまうことになりかねない。 

ただしここでくれぐれも誤解のないように書いておくと、私はもちろん餌付けがそのまま開発で失われた自然の代用になるとか、だからじゃんじゃん餌付けをしましょうと言っているのではない。オナガガモのように餌付けで増える種とそうでない種がいることを見てもわかるように、昔の豊かな日本の自然が支えてきたものと、餌付けで一部補填できるものは内容が大きく違うことは明らかだろう。 

ただそれにしても、近年の餌付け規制論は、とかく「餌付けの問題点」や「生態系への影響」を並べることに専心するあまり、上記のような人間が自然に与えている餌付け以外のありとあらゆる甚大な影響を含む広い視野をすっかり忘れた、極めてバランスの悪いものになりがちであることには強く疑問を呈しておきたい。またその際には、普段さほど鳥に興味がない一般人や子供でも光学機器を通さずに身近に野鳥の姿に触れられる―といった、餌付けについて考えられるプラス面はまるで無視される傾向が強いのも気になるところ。 

もちろん確かに今後考慮または解決されていくべき問題点もあること自体に異論はないが、例えば広大な野山を根こそぎ潰して造られたニュータウンの、コンクリートプールのような人工池に立つ「生態系に悪影響を与えるので餌付けは止めましょう」といった立看板の抱える矛盾といったものについては、ぜひ多くの人が冷静に見極めた上で物事を考えていってほしいし、ましてやどこでも単に餌付け禁止で鳥を追い出せば失われた“自然本来の生態系”が帰ってくるかのような誤解がこれ以上一般に広まることは避けたい。明らかな実害や危険性が認められるものを規制するのはともかく、このまま日本の隅々にまで画一的な規制が進むことについては、社会に精神的なゆとりの部分を残すという意味でも少し慎重であるべきではないかと考える。



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by Ujimichi | 2014-01-25 21:58 | 餌やり規制問題について

2013年 11月 24日
平和な風景
画像は少し前に撮影した、とある公園池のマガモたち。近所の子供たち数人がパン屑を与えていたが、きゃっきゃと目を輝かせて池畔を行ったり来たり、実に楽しそう。昔は「餌をあげないと可哀想」という発想が多かった。今では代わって、「餌付けされていて可哀想」という言い方が目立つ。しかしこれらはどちらも私の目には多分に時代による洗脳であって、それほど明確な根拠はないように映る。餌付けについては、実害の有無から、逆に良い面はないのかどうかに至るまで、できるだけ公平で冷静な目で考えたい。



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by Ujimichi | 2013-11-24 01:38 | 餌やり規制問題について

2013年 02月 09日
エサやり規制の裏側
a0044783_17332352.jpg先日フィールドでちょっとお会いしたある方のお話によると、2007年ごろから大々的に始まった不忍池のエサやり規制の裏にあるのは、やはり鳥インフルエンザ対策なのだとか。まあ以前からそうではないかという声はちらほら聞いたことがあるし、私もどこかで薄々もしやとは思っていたところではあるのだが、しかしこの話が事実だとすると、鳥インフルエンザ対策という、ある意味「良くも悪くも一番効き目のありそうな」規制理由をわざわざひた隠しにして、「カモが太って飛べなくなる」などという見え透いた嘘を撒き散らすことに一体何のメリットがあったのやらさっぱりわからない。

しかし、わからないなりにあれこれ考えた末に辿り着いた仮説を以下に書いてみると、要するに鳥インフルエンザなどと言って鳥を“悪者”にしてしまうと、熱心にエサをやっている“鳥可愛がり”な人たちから反発を食らうのではないかとか、あるいは一般に不安を与えるのではないか―的なおかしな配慮が働いてしまい、だからこそ逆に、鳥を悪者ではなく「エサやりの可哀想な被害者」に徹底的に仕立て上げることで、そうしたエサやり人たちを上手く丸め込めると考えたのではないか?という気がするがどうだろうか。他には、鳥インフルエンザについて難しいことを言ってもどうせ伝わらないだろう的に大衆を見下すような心理や、または規制側自身がそうした煩雑な説明をする手間が省けると考えた面もあったのでは、という想像もできる気がする。

しかし無論のこと、本来鳥インフルエンザのリスクを懸念するのであれば、そのリスクを過大評価も過小評価もせず、できる限り正確な情報・知識を伝えることにまずなによりも腐心すべきだ。それが簡単なことではないのは解るが、だからといってあることないことを含め、考え付く限りの別の理由を並べ立て、マスコミ総動員で世論操作をしてエサやりを禁止しようとするなどは愚の骨頂。オオカミ少年ではないが、こうした不誠実ないわば“反則技”が結果として行政不信を招くことで、将来もし本当に差し迫った深刻な事態が起きた際に、逆に今度はまともなアナウンスをしてもまともに受け取ってもらえない―なんてことになりはしないのだろうか。また何度も書いてきたように、昨今のエサやり規制が「自然」や「生態系」といった言葉を都合よく乱用することで、一般に誤った自然観を植え付けているのも大いに疑問を感じるところ。いずれにしろこれまでのエサやり規制がいかに安易で間違った方法で行われてきたかについて、マスコミを含め関係機関は今一度真摯に振り返り反省して頂きたいと思う。

なお鳥インフルエンザ自体については私は全くの素人であり、危険性・安全性、どちらについてもここであり合わせの知識で軽率なことを言うつもりはない。同様に、関心のある方はぜひ幅広く情報収集をし、なるべく正確な知識を得た上で自分の考えを持ってもらいたいと思う。そして行政がこうした問題について何らかのリスク回避に努めるのは当然と思うし、そのために本当に必要性がある範囲で、しかもそれをあくまでも誠実に説明した上で、エサやりについてもある程度何らかの制限を設けることには無論反対ではない。しかしとはいえ同時に、実際以上に危険性を誇張して不安を煽ったり、無闇かつ不当に野鳥を排斥するような風潮にも決してならないことを切に願っている。
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by Ujimichi | 2013-02-09 17:40 | 餌やり規制問題について

2013年 01月 25日
「餌」と「食物」
a0044783_226419.jpgちょっと思い出したことを少し。

父が「オオタカ観察記」の原稿を執筆している頃、文中に出てくる「餌」という単語について、編集者から「“餌”は人間が与える食べ物の意味になるので、“食物”に変えた方がよいのでは」という旨の指摘があった。父としては別段どちらでもよいと思っていたので結局は「食物」に変えたようだが、実は私自身はこの件については未だにちょっと、いやかなり納得していないところがある。

一般に「餌」という言葉が「人間が与えるもの」というニュアンスで使われる機会は確かに多い。しかし少なくとも私の中では、「餌」とはあくまで単に「人間以外の動物が食べるもの」という極めて単純明快な定義があり、「人間が与えるかどうか」を基準にするという発想は全くなかったからだ。

そこで以下に私なりの想像をしてみると、「餌」の元々の意味はあくまで私が思う「人間以外の動物が食べるもの」であったが、たまたまそれが人間が与える機会が多いことから結果的に「人間が与えるもの」という印象が一般に広まり、それがあたかも元々の意味であるかのように誤解されていったのではないのか?という気がしている。確かに辞書でも「人間が与えるもの」という意味合いの説明をしているものは多いが、例えばkotobank.jpを見ると、単に「生き物の食べ物」という意味での説明がちゃんとなされている。

従って、「採餌」や「探餌」、「求愛給餌」、「潜水採餌ガモ」、チョウ等における「食餌植物」といった、昔から使われてきた多くの言葉に「餌」の字が含まれることにも私は違和感を全く持ってこなかったし、これを変えようという意見の方にむしろ違和感を覚える機会が多い。逆に言うと、こうした言葉が沢山あること自体が、「餌」が元々「人間が与えるもの」の意味では全くなかったことの証左ではないのだろうか。

言葉は時代とともに変化していくものであり、時にはそれを意識的に変えようという機運が生まれることがあるのもまた当然かもしれない。しかしその際には、くれぐれも根拠の不確かな思いつきや流行、言葉狩りのような形で拙速に事が進んでしまうことのないよう、その言葉の本来の意味や成り立ちについては注意深く考えていく必要があるように思う。

というわけで上の画像は潜水して貝類を「採餌中」のスズガモ。
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by Ujimichi | 2013-01-25 23:21 | 餌やり規制問題について

2013年 01月 11日
条例化だそうな
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今日遅ればせながら知ったのだが、なんと近々北海道で野生鳥獣の餌付けを禁止する条例案が提出されるらしい。さすがによく知らない地方のことでにまで一々首を突っ込んでいる暇はないので、この条例案自体の中身や妥当性をここで云々するつもりはないが、こうなるといずれ他でも右に倣えで追随しだし、問題のあるものもないものも一緒くたで何でもかんでも「餌付け=悪」という風潮がますます強まることは目に見えている気がする。それにしてもこの件を伝える報道の中には、「パンで窒息死した水鳥も発見されている」という一文があり、もしこれが本当なら確かに悲しいことだが、しかしそうなると北海道民はいずれ餅の製造販売も条例で禁止されて食べられなくなるのでは、とついつい余計な心配をしてしまった。(^^;

それはともかく、カモ等へのエサやりが隆盛を極めていた90年代頃の東京で見てきた印象でも、熱心にエサやりをしていた一部の人たちも確かに節操がなく、とにかく撒くエサの量が法外だったり、食パンを細かくもせず丸ごと投げ捨てるようなやり方だったり、人間社会との軋轢を生みやすいカラスやドバトにも見境なくやる人もいたりして、こんなことではいずれ時代的・社会的な反動が来るのでは―という一抹の不安はあったのだが、今や東京近辺の公園池等のほとんどどこへ行っても餌やり禁止の看板を目にし、ついには北海道で条例化の話(もちろんこちらはキツネやハクチョウなど様々に事情の違う対象を含んだ話だろうが)まで持ち上がるとは、いくらか予想されたこととはいえ、その波がここまで極端で徹底した形で押し寄せるところまではさすがに以前は想像していなかった。

何よりも、かつては何かとエサやりを不必要に美談として散々持ち上げ煽っておきながら、今世紀に入って掌を返したようにエサやり叩き一色に転向したマスコミのやり方は最悪だと思う。私の感覚では、後先考えずに度を越したエサやりをする人も阿呆だが、ただ時代の尻馬に乗って嬉々としてエサやり叩きに走る人も阿呆、その中間で私などが一々気に病んでもつまらぬストレスを溜めるだけなので、やはり結論としてはただ呆れ顔で眺めていることにしようと思っている。ただいずれにしても、この手の問題に注目する際に、「エサやりvs自然」という二者の関係性ばかりが強調され、人間社会全体と自然の関係性という広い視野がまるで忘れ去られる風潮が強いことには、明確に憂慮の念を示しておきたいと思う。
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by Ujimichi | 2013-01-11 16:43 | 餌やり規制問題について

2013年 01月 08日
まだやっているとは
2007年のあの世にも馬鹿げた餌やり叩きキャンペーン以来、不忍池には気分が悪いので実は一度も行っていない。しかし今日は都内の某庭園のカモを観察に行ったら、「太りすぎたカモ?ほとんど飛べません!」を筆頭に、無根拠・無責任な珍説を並べて東京都によってあの頃作られた、例の恥ずかしいトンデモチラシが未だに置いてあった。しかも入口の一番目立つところに。仕事熱心は結構だが、東京都は自らの鳥や自然に関する無知をそこまでして晒し後世に伝えたいのか。こんな恥ずかしいことをやっていては、最近随分と熱を入れているらしいオリンピック招致も同じ目で見られかねないのではないかと余計な心配をしてしまう。なにやら折しも葛西臨海公園にカヌー競技場を建設しようとしてだいぶ問題になっているそうだが、自然、自然と高らかに謳うこのチラシとの対比もなかなか興味深い。

a0044783_21374767.jpg<これが東京都が作成した悪名高き世紀のトンデモチラシ。写っているのは見ればわかるが何の変哲もない普通のオナガガモ。こんなものを太ってほとんど飛べないなどと断じる節操のなさには呆れるほかない。(経緯をご存じない方は同カテゴリーを遡ってご覧下さい。なおカテゴリー名は当時「”餌やり防止キャンペーン”」としていましたが、最近「エサやり規制問題について」に変更してあります。)



a0044783_21361126.jpgそれはさておき、「庭園」というもの自体が私の感覚ではまさに「人為の塊」のような空間なので、そこでも鳥にだけは何が何でも「自然」であることを求めるエサやり規制のアンバランスは何とも滑稽に見える。人の手で見事に刈り込まれた植栽や芝生、美しく並べられた石畳といったものと、陽だまりの中でのんびりとコイやカモにエサを投げて楽しむ人々、というのは、良し悪しはさておき私の中ではそれはそれで一対の等価でかつよく調和したアイテムと認識してきたものだが。

ところで年末に行った千葉県の公園では、「パンや菓子は野鳥の健康を害する」と書いてあったが、今日寄った都内の川辺には「エサをやると繁殖力が増し、生態系バランスに大きな影響が出る」と書いてあった。要するに一方では「健康を害するからダメ」だと言い、他方では「繁殖力が増すからダメ」だと言う。こんなところからも、やはり今流行の餌やり規制は冷静に眺めてみると実に論拠があやふやな印象を受ける。

そして何よりも私がいつも一番引っかかるのは、「現状」-「餌やり」=「自然本来の生態系」と言わんばかりの、あまりに単純で非現実的な論法だ。前も書いたが、少なくとも都市部では特に、餌やりが行われる以前から、自然本来の生態系など我々人間の手で滅茶苦茶に壊され寸断され掻き回され、ほとんど原形をとどめてはいない。例えば高度経済成長以降、東京湾岸の広大な干潟や湿地を一体どれだけ無残なまでに埋め立ててきたと思っているのか。しかし別の言い方をすれば、そうした巨大な自然破壊もまたエサやりも含めて、豊かであれ貧相であれ、さまざまに形を変え続けながら何らかの形で存在し続けるのが生態系―ともいえる。

これに対してどうも昨今よく見かけるの餌やり規制論の中に登場する「生態系」とは、多くの場合単に子供を怖がらすための架空の化け物のような、あるいはまるで指一本触れてはならない永久不変の神のような、何とも得体の知れない存在になってしまっている気がしてならない。そこにあるのは要するに観察や調査などから把握された実体を伴ったものではなく、もはや単なるイメージや記号でしかないのかもしれない。

―と、色々書いてはみたが、大多数の一般人の鳥や自然への関心の程度を考えれば、実際のところ現在の餌やり規制をあまりこんな風に真正面から真面目に考えてもどうなるものでもなく、それよりも90年代をピークに明らかに度を越していた餌やりブームの単なる揺り戻し現象として、遠目から冷やかに見ておくのが結局正解なのかな、とも正直なところ思っている。
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by Ujimichi | 2013-01-08 22:28 | 餌やり規制問題について

2013年 01月 06日
80~90年代にもしインターネットがあってこのブログがあったら、私は多量の食パンをドサドサと池に投げ捨てるかのような過剰な餌やりブームに疑問を呈する文を間違いなく書いていたと思う。しかしながら今や逆に世の中は一斉に右へ倣えの餌やり禁止ブーム。エサやりによって「自然の営みが歪む」とか「減ってしまう動物もいる」などと綺麗事を並べた立看板のあるまさにその池畔に、一方でパンジーなどというあからさまな園芸植物をせっせと植えて他の植物を“雑草”として徹底排除している―といった歪さ滑稽さにうんざりしているのが正直なところ。例えば草を茂るままにしておけばバッタやコオロギが住み、都市部からは消えつつあるモズやホオジロ類が餌場として利用できるのでは?といったようなことはやはり一般にはなかなか想像しにくいのだろうか。

散々自然を壊し、散々餌付けし、壊した自然は元に戻さず、それでいて 「ゴメン、やっぱり餌付けは止めるから自然に還れ」と突き放すのが果たして本当に正義なのかどうか。というよりも、自然とか環境とか生態系とかいった便利な言葉は、実は単にエサやりに関連する苦情や面倒事を避けたいだけの管理主体に適当に利用されているケースが実際かなり多いような印象を強く受けている。そしてもちろん、そもそも昨今のエサやり規制の最大の火付け役が、2007年頃の「カモが太って飛べなくなる」などという例の事実無根の一斉無責任報道だったという経緯は、今後各地で餌やりをどう位置付けるにしろ、一つの事実として忘れてはならないと思う。

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キンクロハジロ
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by Ujimichi | 2013-01-06 17:10 | 餌やり規制問題について

2009年 12月 24日
野性の顔
近所のオナガガモ。常に周囲の人の動きをよく見ていて、岸に人が近づくと一応寄っていく。どうやら餌をくれないとわかると興味を失ったようにおもむろに羽繕いなどをはじめ、やがて自分たちでせっせと餌を探し始めた。ある断片だけ切り取れば一見餌付けに頼りきっているかのようにも見える彼らだが、「太って飛べなくなる」「渡らなくなる」などといった創られた虚像に比べ、その実像ははるかにドライで野性的だ。

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by ujimichi | 2009-12-24 22:48 | 餌やり規制問題について

2009年 12月 18日
あまりに漠然としたイメージ
少し前にも書いたが、「生態系を崩す」からとか、あるいは「野性を失わせる」から餌付けはいけない、というよくある言い方は、どうも「自然」と「非自然(人間界)」を無理に真っ二つに分けて考えているようなところにいつも違和感を覚える。実際には人間社会にも自然は複雑に入り込み、自然界にも様々な形で人手が加わっているのが現実であって、その間に明確な境界線を引くことは困難だ。だからといってどこでも無制限に餌付けをしてよいとか、今残っている良好な自然環境を安易に改変してよいと言っているのではもちろんないが、ただそれにしても餌付け云々という話に関してよく一般に語られる、自然vs人間という図式はあまりに単純で漠然としすぎている。

例えば餌付けによって鳥が人を恐れなくなることは、本当に野性を失う「悪いこと」なのだろうか?アマサギが水牛やゾウの背中に止まったり、田畑で耕運機の後を追いかけて虫を獲っていることと本質的に何が違うのだろうか?商店街や駅舎に巣をつくり、人間を用心棒として上手く利用しながら繁栄してきたツバメは「野性を失っている」のだろうか?また崖の代わりにビルや橋げたに生活拠点を見出したハヤブサやチョウゲンボウの生き方は「不自然」なのだろうか?古くから日本の稲作に上手く適応したアキアカネが繁栄してきたことは、人が栽培するキャベツを介してモンシロチョウが普通種として繁栄してきたことは「悪いこと」だろうか?全国各地に植えられているソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの交配によって生まれた人為的なものだからあらゆる場所から排除すべきだろうか?もちろん人間の介入度の低い優れた自然環境が後生まで残ってほしいとか身近に取り戻したいという思いは私自身にも大いにあるが、その一方で人間が自然に関わる行為を一律に否定し続けると、しまいには人間自身を否定するところまで行き着いてしまうのではないか、という気がする。

「カモは本来夜行性なのに餌を与えると習性が変わってしまう」と書いてあるものを見たこともあるが、実際に観察してみるとそもそもカモは夜行性と決まっているわけでは全くなく、場所や状況に応じて昼夜を問わずかなりランダムに餌を採っていることが多い。例のメタボガモ云々の騒動はまさしくその典型例だが、我々人間は鳥が本来どういうものかすらよく知らないまま、大急ぎで善悪論に飛びついてしまっていることが結構多い。もちろんここで餌付けを奨励する意図は全くないのだが、しかし少なくとも、「餌付けは悪い」「人が自然に介入してはいけない」といった画一的で漠然としたイメージではなく、もう少しこうしたことを一つ一つ掘り下げながら物事を冷静に考えてみる必要はあるように思う。


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遠浅の海で餌を採るヒドリガモ
ここではカモたちは干潮時に一斉に採餌し、潮が満ちると一斉に水面に浮かんで休んでいた。つまりここでは昼か夜かではなく、潮の干満による生活パターンが形成されているようだ。もちろん同じヒドリガモでも河川では人の少ない時を見計らって川岸やグラウンドに上陸して草を食むし、皇居のお濠ではキンクロハジロなどの潜水採餌ガモ類にまとわりついておこぼれにあずかるという面白い行動も観察される。我々人間は「夜行性」「昼行性」「良い」「悪い」といった言葉で物事を二分して考えようとするが、実際に観察してみるとカモたちは状況に応じてはるかに柔軟に多様な生き方を選択していることがわかる。
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by ujimichi | 2009-12-18 15:09 | 餌やり規制問題について

2009年 11月 22日
”マルガモ”Ⅱ
昨日撮影の神奈川県の公園の画像から(ウミウとは別の場所)。ここでは「一見カルガモ風個体」が5羽見られたが、それらはよく見れば明らかに怪しげな風貌で、いわゆる“マルガモ”の特徴を持っていた。しかし単にマガモとカルガモの中間という印象ではなく、体型などにアヒル的な印象が強い。うち1羽の羽色はカルガモにほぼそっくりだが、やはり体型などに他の個体と共通した印象があった。そしてやはりここでも大きなアオクビアヒルが1羽。純粋なカルガモと確信できる個体や、野生のマガモは観察できなかった。ここを訪れるのは2度目なので継続した観察はできていないが、以上の状況からはこれらの“マルガモ”タイプの個体はアオクビアヒルとカルガモの雑種、またはその子孫である可能性が高いと考えられる。

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アオクビアヒル(左上)と2羽の“マルガモ”
2羽とも一見カルガモに似るが、嘴爪が先端だけでなく上まで黒い。手前の個体の白っぽい下尾筒にも注目。

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“マルガモ”
奥の個体はマガモ♀に似た羽色だが、それよりやや暗色部が多め。嘴のパターンは縁まで黒いためカルガモに似るが、基部に黄色部がある。

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“マルガモ”
上の手前の個体と同一。一見カルガモに似るが、嘴先端の黄色部が大きく基部も黄色い、下尾筒が白っぽい、尾羽がより白い、などの点が異なる。



これまでも何度か書いたが、もし仮にこうした人為移入による交雑を問題ありと考えるとしても、「捨てアヒル問題」を「餌付け問題」にすり替えていては解決にならないだろう。「東京都内でカモの雑種が何十羽も見つかっている、餌付けが原因ではないか」という趣旨の新聞記事等が以前何度か出たが、この手の捨てられたり放し飼いにされた家禽が関わった雑種と、元々ごく近縁で交雑例の多いヒドリガモ×アメリカヒドリの雑種を勘定に入れ、さらに雑種ではないカモの単なる年齢や換羽状態による変化まで誤って雑種として数えてしまえば、あっという間に何十羽という数が雑種として記録されてしまっても全く不思議ではない。

ちなみにこの公園では大規模な餌付けは行われていないが、近隣住民らしき人が少量の餌を与える姿は数回見かけた。餌付いているもの、いないものを含め全体ではオナガガモ12羽、ヒドリガモ31羽、オカヨシガモ2羽、キンクロハジロ122羽、ホシハジロ103羽をカウントしたが、“マルガモ”以外の雑種は、ヒドリガモの中にアメリカヒドリとの交雑と思われる、頭部に緑色光沢のある個体を1羽確認したのみだった。東京近辺の各地の公園等で見ていると、雑種については程度の差はあれどこも概ね似たような状況であり、以前新聞に書かれたような、「餌付けのせいで様々な組み合わせの雑種が生まれている」などと言えるような状況は見たことがない。またいわゆる“マルガモ”についてはここのような状況の場所も確かにあるが、もちろん普通のカルガモや野生のマガモがそれぞれ群で沢山見られる場所も多い。どこでも同じように“マルガモ”だらけになっているわけでは決してないので、この点も少し落ち着いて見極める必要があるだろう。

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“マルガモ”
それ本当に雑種ですか? 
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by ujimichi | 2009-11-22 21:55 | 餌やり規制問題について